’人間性’とは

たまたま興味深い記事を見かけて、ちょっと考えたことがあるのでご紹介。
AI時代の人間性復活 スポーツが最後の砦に
冒頭、
人工知能(AI)や情報通信技術(ICT)が生活の隅々に及ぶ未来の社会において、スポーツはいかなる価値を持つのか。
という問い(自問)は、「スポーツ」に他のものを当てはめても成り立つでしょう。

特に考えさせられたのは最後の部分で
大リーグではデータ重視の「マネー・ボール」に対して「野球がつまらなくなった」と嘆くファンが増えている
というような話はおそらく他の世界でも、珍しいことではない、というかむしろよくあることなのではないかと。

これを将棋界に当てはめて考えると、どうしてもみんながAIに基づいて研究を進めるので、似たような将棋になってしまいがちだし、それを解説する棋士たちもまた、AIの意見や影響からは逃れられない。
という側面が思い浮かぶ。
たとえば羽生先生も近著で「将棋が画一化する」ことへの警鐘や危機感を語っている。本題とはそれるが、最近の羽生先生が意識的に多様な戦型を試している(ように見える)ことは、もちろんそれが目先の勝利につながるという考えもあるかもしれないが、それだけでもないと思う。

幸いにして将棋は現在のところ(画一化の兆しは何度となく訪れているものの)基本的には拡散化(羽生先生の言葉を借りるならば「カオス」)の傾向にあり、「データ重視で将棋がつまらなくなった」とファンに嘆かれるような状況には至っていない。
ただし、難しくはなっている。プロの将棋はもともと難しいものだが、最近はさらに難易度が上がっていると私は感じる。

これも将棋だけが特別ということではなくあくまで一般論として、ある競技のレベルが上がっていくことによって、それだけその競技の魅力が増すとは限らない。
だからと言って、(データの蓄積や分析によって)レベルが上がっていくことからは逃れられないし、ましてそれを拒否すべきではない。ここはあらゆるプロ競技において難しい問題と言える。
これからも競技レベルは上がっていく、つまりさらに難しくなっていくという前提に立った上で、プロはその世界の魅力をどうやって伝えるかという問いを、常に持ち続けていなければいけない。

AIの話に戻って、昨今の将棋界ではよく「AIに負けても人間同士の戦いの魅力が損なわれるわけではない」「車と競争したら勝てないけど人間が全力で走る姿に人間は感動する」などという言説がよく聞かれる。
たしかにその通りだと思うのだが、そこで思考停止しているのはどうなのかなと個人的には思っているし、気がついたら「最近の将棋はつまらなくなった」と言われる世の中が来てしまうかもしれない、という危機感は持っているべきではないかと思っている。
やはりその競技に取り組む(実際にプレイする/観る/伝えるetc.の別を問わず)ことの意義や、その時代に合った方法を、常に考えていなくてはけないと思う。

人間性復活のレジスタンスの拠点にしたい
というなんとも壮大な一言を目にして、そんなことを考えた。

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