日曜日のエントリにも関連して。
ちょうど奨励会試験の季節でもあるので、紹介しておこうと思いました。
「棋士を目指す」のがどういうことなのか、どういう苦労があるのか、自分が奨励会に入った25年ほど前に比べて、世の中にある程度情報が行き渡っているというのは大きな違いだと思う。
ただ、当然ながら本当のことは、経験してみないと分からないし、一人ひとり違った経験を持っている。
そういう意味では、意義深い一冊と思う。
ただ、僕自身は
奨励会に入る前にこれらの「棋士という職業のコストパフォーマンス」を知っておくべきだった(p23)
とは全然思わない。
むしろ知らないで済むならそのほうが本当は良いのではないか、と思ったのが、このエントリを書くちょっとしたきっかけになった。
そもそもプロの世界というものは、よほどその世界が好きで、あるいはその世界にどうしても入りたくて、志すものであって、いろいろな道をつぶさに比較検討した末の合理的な判断で入るものではない気がするので。
またおよそ自分の知っている範囲では、「プロ」と呼ばれる・認識されている職業を目指すコスパは、ほとんどの場合、良いとは言えない。
(例外は医者ぐらいだろうか)
身も蓋もないことを言えば、もっともコスパの良い競争は結局のところ大学受験であり、その後金銭的な成功を得たいと思うならば、プロ経営者か、いまならプロトレーダーを目指すのが正解だろう。
さらに言うと、綿密に下調べしてその世界に飛び込んだとして、10年後に社会がどうなっているか、分かるわけもないので。
「消える職業云々」と取りざたされている昨今、自分の考えでは、10~20年後ぐらいには「職業」という概念自体がかなり変容していると思う。
自分自身は棋士になれてしばらくしてからようやく、棋士を目指さなかったらどうだったかと考えるようになった気がする。
選んだ道にたまたま迷いがなかったのは、幸せなことだった。
あまり知識が多すぎると、かえってブレーキを踏むきっかけになってしまう。
今の子どもたちは情報が多すぎて、モノを知りすぎている。
たとえば「あの子は強い」と戦う前から知っていたりする。それで尻込みしてしてしまうのは、ちょっともったいない。
基本的には将棋の強い子どもというのは、井の中の蛙であるべきだと思っている。
もちろん、それで天狗になっていてはいけない。さらに強い相手を探して、出会って、そうしたらその上に行くにはどうしたら良いかと考えること。その繰り返しで人は成長する。
僕の場合、プロ棋士になったら、将棋を指して、メシが食えるらしい。というのは、子どもながらに、なかなか強烈な動機だった。
逆に言えば、その程度の認識だった。
たぶん、大半の棋士がそうなのではないだろうか。
当たり前だが、「メシが食える」というのが、どういうことなのか子どもに分かるはずもない。
それで良いのではないだろうか。
もちろん、奨励会というところは、本当に大変である。
入ったら、みんな、死ぬ気で頑張ってもらいたい。
大切なことも書いてあったので、以下に引用しておく。
何よりも大切なのは習慣だ。
毎日盤に向かい、一定時間以上、息をするように将棋の勉強をする。奨励会に入れば、全て自分で考え、自分で決めて勉強をしていかなければならなくなる。その時に大切になってくるのは、習慣であり、自分で考えて勉強を続ける力だ。
ところでちょっと本書の内容からはそれるが、
・習慣を意識せずとも自然にできるのが才能、習慣を意図的に作り出すのが努力。
・少ない習慣で成果を出せるのが才能、大量の習慣に縛り付けることでなんとか成果を出すのが努力。
・そしてその違いを意識しない鈍感力もまた、ひとつの才能。
なのではないかと、最近思っている。
将棋がブームになるということは、競争がさらに激化するということでもあるので、これからの奨励会員はますます大変だと思う。
ただ将棋の世界というのはとにかく、努力が報われやすい世界でもあるので、どうか悔いのないように頑張ってほしいと願います。
まあ、コストパフォーマンスの良い職業なんてないですよね。
もしあったとしたらそれはリスクの大きい職業だと思います。
まあ普通は自分の納得できる仕事でメシを食えれば良い感じなので、好きな仕事でメシを食える一握りの方は、才能と努力が結実した良い職業選択の結果なのだと思います。
そうですね。まさに。
鈍感であることもまた才能である。
とは、内藤國雄九段もおしゃっていましたね。
(淡路九段を指してそうおしゃっていたと記憶しています。)
ここでの「鈍感」とは違う意味文脈での言葉かもしれませんが。
印象に残る言葉と記憶しています。
どうなんでしょうね。それなりに、近い意味なのではと思います。